どうも。田中です。さて「第1回丸一塾のアノ人は今」企画。
初回に登場させるべき人物は誰にしようか、いろいろ候補がいましたが、現在の丸一塾においてなくてはならないアノ人をお呼びしました!!
・それではどうぞ。
『株式会社H&Ks(丸一塾)の社員の中村勇佑です☆』
まずは中村先生、なかむーから。
私が塾を語る上で、なかむーの存在は外せません。なぜなら、当初マンションの一室にて開校していたとき、初めて出会った塾生たちのひとりだからです。そして、マンションの一室からボロアパートへ。ボロアパートからだんだんと今の丸一塾の規模へ。
丸一塾を支えてくれた、大事なメンバーのひとりです。
・さてなかむー、受験生のころになぜ春日部の塾ではなく、獨協大学前の丸一塾まできていたの?
『当時の塾生で、高校が同じだったピョコ(あだ名)に誘われたからですね。まあ距離はそこそこあるかもしれませんが、受験生なら春日部から大宮や都内の予備校に通う子たちもいますからね。それと比べれば近い方かと。あとはぶっちゃけ金額かな。今の恵まれた講師環境とは違って、当時は講師が廣田さんと田中さん、それに守口さん(のちのち登場します)だけで、英語しかとってなかったから料金も安かったし。浪人中は田中さんの現代文もとってましたね』
・受験生のころの思い出は?
『きつかった(笑)なにもかもが。プレッシャー、単純に勉強することが。今にして思えば言うほどやってなかったんだけど』
・浪人を覚悟したのはいつから?
『現役のときの12月。できない問題が多く、それがとても悔しかった。浪人を覚悟したっていうか、もうその時には浪人しようって決めてた』
実は中村先生、浪人経験者です。丸一塾の講師は、木村先生も、守口さんも、そして私も浪人を経験しています。といっても経験した浪人生活は全く違ったものでしたが…
・浪人することを親御さんに伝えたときは?
『母親に伝えました。包み隠さず。この先の40年が決まるんだから、やる価値はあるんじゃない?という前向きな言葉をいただきました』
・その後、浪人生活。そして合格、と。
『第一志望の合格発表をみて、一番最初に連絡をしたのが廣田さん。でも廣田さんはその時電話にでなくて、次に田中さんへ。そしたら田中さんも出なくて、一番最初に報告できたのがきむにー(木村先生)でしたね。感動もくそもあったもんじゃない(笑)』
…そのとき、私はちょうど免許更新の手続きをしてて、電話に出そこなったんですよね。申し訳ないことをしました。
・その後は、田中の舎弟へ(笑)
『そうね。田中さんのまわりにいる人たちにいろいろな遊びに連れて行ってもらい、塾の講師になることも合格したあとにすぐに決まりました。合格の報告よりも、いつから働けるの?的なノリで。みんなひどいよね』
・大学では教育学部の数学科専攻。大学生活はどうだった?
『楽しかったよ。自由度があがったから、その時その時にやりたいことができたし。バレーボールサークルでバレーして、冬はスノーボードして。
授業も自分の専攻したいものをしっかりと学べたから楽しかった。ただ学べば学ぶほど、自分の理想とは離れたものだと気づいちゃったから、中学の先生からはすぐに足を洗ったんだけど(笑)それに気づけたっていうことも、意味のあることだったと思っている』
・教員ではなく、塾に戻ってきた理由は?
『それはそのうちブログで直接お伝えしますわ。自由に生きている田中さんやそのまわりの人たちの影響もそれなりには(笑)』
・それじゃ最後に。この塾にきて人生が変わったと思う?
『大きく変わったかと。ここに来なければそもそも浪人なんてしなかった。夢で教員になりたいっていうのは持っていたけれど、それが現実的にどういうものだったのか、全く分からない状態で大人になっていただろうし。
浪人の経験も、そこから入ることができた大学での経験も、短い時間ではあるけれど教員になったことも、そして今、塾に戻ってきていることも、多くは丸一塾と関わることで生まれた道だと思う。どれも自分で考えて出した結論。その考え方は塾で学んだものかと。自分で考える、それが一番だと思います』
てな感じで第1回のアノ人は今、中村先生でした。
もうかれこれ7年ぐらい、中村先生とは付き合いがあります。お互いに支えあって?ここまできましたが、今後も私は中村先生に支えられて?生きていく予定です。
これ、やってみると意外と構成とか考えるの難しいですね…
そもそもブログとかやったことないから、記事を書くってのも難儀なことですわ。
がしかし、やると言った以上、続けていきましょう。
次回は、女性の登場です。どうぞ、お楽しみに。